ジェントリフィケーションの問題から分かる、ヨーロッパ人の社会的弱者への関わり方

ちょっとしためも。今日同僚とGentrificationの話をしていて思ったこと。
欧州と日本って社会的弱者に対するまなざしが根本的に違う。まだうまく言語化できないのだけど、日本では、彼らは庇護されるべき「対象」として眼差されるのに対して、欧州の人々の弱者救済の論理は徹底した「主体化」から生まれるものだと思った。

たとえば今日話題に出たGentrificationの問題。Gentrificationとは、都市部の貧困層が住んでいた地域に富裕層が流入し、地価が上がり、もともと住んでいた貧困層が追い出される現象。この問題に関して、同僚に「今までそこに住んでいた人たち(貧困層の人たち)の『住む権利』はどうなるのか?今まで住んでいた人たちを不当に追い出す権利は誰にもないだろう」と問いかけられた。これが新鮮だった。日本なら、仮にそれがバブルやブームなどで自然に発生したものなら、「価格が彼らに釣り合わなくなったのだからしょうがない」で済まされてしまうだろうし、たとえ都市開発などで計画してもたらされたものであっても、「彼らは追い出されたあと、どうなるのか、どうすべきなのか」が焦点とされがちで、「彼らがもといた居住地に住む権利はどうなのか」という議論には行き辛いのではないか。

ヨーロッパのひとたちは、「社会的弱者が闘い勝ち取るべき権利は、すなわち私が闘う権利です」と言い切る。彼らにとって「社会的弱者の問題をマージナライズ(矮小化し、隅に追いやる)ことは、ほかのあらゆる社会的問題をマージナライズすること」なのである。たとえば難民や移民など、ヨーロッパ人にとってより「対象」となりやすい存在の社会的弱者に対してさえ、彼らは「難民が◯◯する権利」を「彼らの」イシューとして雄弁に語る。

少し話はずれるが、「政府による現地住民の住居の圧迫」という点では福島や沖縄がよく議題に上がる。ここでも、「私は福島や沖縄の人と同一です、彼らの権利=私の権利なのです」という非福島県民や非沖縄県民はなかなかいないと思う。それよりも、「彼らによりそって」とか「彼らのために」とかいう言説のほうが しっくりくるのではないか。

いまヨーロッパでは難民問題が大きく取り上げられていて、様々な議論が展開されているが、ヨーロッパ人の「社会的弱者への主体化」というこの気づきは、日本=集団主義=他者を自己主体化しやすい、欧州=個人主義=他者と自己を切り離す、という一般的偏見?と食い違うもので、なかなか面白いなと思った。

基本的人権の絶対的尊重とかがからんでるのかなあ…。


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